GWの期間で『新世紀エヴァンゲリオン』のアニメシリーズ(1995年~1996年)と旧劇場版『Air/まごころを、君に』(1997年)を観賞した。
この作品は、2000年に起きた大災害セカンドインパクトから15年後の日本を舞台に、巨大な汎用人型決戦兵器「エヴァンゲリオン」のパイロットになった14歳の少年少女たちと、第3新東京市に襲来する謎の敵「使徒」との戦いが物語の大筋となっている。
放送時から近未来を描いたエヴァは、派手なロボットアクションやスーパーコンピューターの進化を描いているが、
作品の主軸に「進化する科学への期待」はない。
伊吹マヤのセリフに「まさに科学万能の時代ですね」とあるため、物語が進歩した科学の上に成り立ってることはわかるが、そこに焦点は当てられていない。
むしろ、エヴァに乗る14歳の青年の精神的葛藤であったり、神話への回帰による人間の起源への探求といったテーマの方が大きいだろう。
2000年という世界の新たな始まりを前に作られたロボットアニメが、なぜ明るい未来展望を語らないのか。
今作が放送された20世紀末という時代性に焦点を当てて考察する。
20世紀末の日本は1991年のバブル崩壊以後経済不況を迎えていた。その他にも袋小路に陥った環境問題、人口問題を抱えると同時に、
1997年の酒鬼薔薇事件のようなコミュニケーション不能を生む教育の問題など、当時を生きる人々が鬱屈とした閉塞感を感じるには十分だったと言えよう。
このような状況下で人々の関心を集めたのが、オカルトや神秘的、宗教的なものである。
1990年代前半に新興宗教団体オウム真理教が大きな団体になったことが端を発し、
1995年には、「ノストラダムスの大予言」が再び注目を浴びたことで第二次オカルトブームが起こったと一般的に言われている。
上述したような時代背景と共通点を見出せるのが、19世紀末のヨーロッパ社会である。
19世紀後半は科学万能主義が台頭したと同時に、フロイトやユングが登場し人間の内面への探求が行われるようになった。
19世紀末にはカトリック復古運動が力を増し、宗教や神秘に対してより儀式性や象徴性を増した新興宗教も勃興した。
19世紀末ヨーロッパを呼称する「世紀末」に至るまでの流れは割愛するが、この時代を簡単に述べると
「人間と社会の進歩・発展を信じる楽天主義や進歩主義も広く、そして根強く存在したが、その一方では、滅びの予感と人間文明に対するペシミスティックな懐疑、科学万能主義に対する反感、官能的陶酔への傾きなどの心性も現れていた時代」と言える。
前置きが長くなってしまったが、20世紀末の日本と19世紀末のヨーロッパの共通点をざっと洗ってみたところで、続いて、
「新世紀エヴァンゲリオン」と「世紀末美術」を比較検討し、表象における相似点を見つけていきたい。
(ただしエヴァについて詳しくないのと、世紀末美術について専門的に勉強をしたことがないので、そんな発想もあるかもねくらいの気持ちで…)
Gustav Klimt 《希望Ⅱ》1907年
世紀末美術を代表する画家の一人、グスタフ・クリムトの作品である。
「妊婦が子供の無事を願うかのように頭を垂れ目を閉じている。そんな彼女の腹部の背後から覗いているのは死神の頭部だ。
彼女が直面している危険の兆候である。足元には3人の女性が頭を垂れ両手を上げている。おそらく彼女たちも祈りを捧げている。
だがまるで子供の運命を予見しているかのように彼女たちの荘厳さは喪を意味しているようにも見える。」(MOMAハイライトより)
この作品の主題である「母と子」はエヴァにおける重要なテーマでもある。
エヴァンゲリオンはパイロットの母親の魂が取り込まれていることから、パイロットの母親の化身とも取れるであろう。
パイロットが操縦するコックピットが液体に満たされているのは、母親の胎内、羊水のオマージュと考えられる。
クリムト絵画において死神から守り祈る母親像と、コックピットに子供を乗せ使徒から身を守るエヴァのイメージは重なるのだ。
パイロットであるシンジとアスカ(レイは出生が特殊なので除く)は共に、親とのコミュニケーション不全により自己肯定感が歪んだ子供として
描かれているが、どちらも物語終盤に、エヴァに乗ることで母親からの寵愛に初めて気づき、自己尊重に繋がった。
あくまで推察ではあるが、デカダンスが蔓延する世紀末社会において、自己認識を「母親と子」という最小単位の共同体から顧みることを喚起しているかもしれない。あるいは、人間存在の母親つまりは人間の起源(=神話)への回帰として捉えても、先に述べた世紀末性との類似点を指摘できるだろう。
Gustave Moreau《オルフェイス》1865年
Odilon Redon《ヴィーナスの誕生》1912年
世紀末美術の一つの潮流に「象徴主義」がある。
象徴主義は従来のアカデミズムや印象派絵画に対する反発として、人間の内面や夢、精神性や神話性を象徴的に表現した芸術を指す。
この芸術において象徴として使われたのが「神話」「宗教」なのである。
かつてよりキリスト教は図像の中に特定の意味を想起するモチーフを入れることで、教義を表現し、それを伝播させてきた。
(百合の花→純潔 青いマント→聖母マリアなど。これらはアトリビュートと呼ばれる)
象徴主義は、観念(非物質)を表現するために旧来の象徴を引用することで、結果として宗教や神話の主題に立ち返ったのだ。
エヴァンゲリオンは、使徒をそれぞれ天使の名で名付けたり、物語の中で執拗に宗教用語を用いる。
(あと、「エヴァ 考察」で調べると聖書や宗教学を用いた考察がごろごろ出てくる。)
物語が中核に触れるにつれ、人間の起源的な部分・神的存在への言及がされてくる。
「神話・宗教へ立ち返った」カルチャーは、特に世紀末という時代性に生まれるもの、望まれるもののように思う。
少し文章を書くのに息切れ気味になってしまいました…。
あとは、象徴主義絵画を代表するオイディロン・ルドンが描いてきた多くの化け物のようなものは使徒のビジュアルに通じるものがある気がします。
ただこれらの作品にあまり詳しくないので、なんとも言えません。
すべてルドン。(最初のはサンダーキャットのDRUNKにジャケ写似ている)
あとはクリムトの《生命の樹》なんてもろエヴァじゃん…と思いました。これは見たことある方ならわかるはず。
劇場版の終盤に、エヴァ初号機とリリスが融合?し生命の樹に還元されるシーンは、クリムトの《生命の樹》と図像まで同じです。
精査も推敲もない思いつきのままの文章でしたがこんなところで。
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ところで話はそれますが、20世紀末に日本で生まれたカルチャーは、オカルトめいたものばかりではありません。
個人的な考えなのですが、1990年代の文化が今の日本でリバイバルの兆しにあると思っています。
・例えば、乃木坂の新譜『I See』がSMAP感を想像させるとバズったこと。
この曲の特徴であるディスコ・ファンクは、1990年代のSMAPの曲に共通します。(SHAKEとか)
・メディアスターが一気に若返ったこと。
1998年は宇多田ヒカル・浜崎あゆみ・椎名林檎・aiko・モーニング娘。のデビュー年であり、若き才能が世にでたJPOP史に
おけるメモリアルな年でした。
こじつけ感は承知ですが、2018年から起こったお笑い第七世代のブームと重ねると、
メディアに若者の登場が望まれていることが共通点として挙げられるかもしれません。
・パルコ文化で生まれたポップでセンセーショナルな広告が、現在レトロポップとして再登場している(気がする)こと。
シノラーを文脈にもつフワちゃんのインスタとかYouTubeを見ればなんとなく思う。
あとテレビのタイトルデザインとか、デパートのポップデザインとか、1990年代の香りを感じる。
特徴としては、ポップで前衛的な色使いをしながら、アメリカ文化(80'~90'のファッションとか)を基礎としていないこと。
フワちゃん好きです。
なぜ現代と20世紀末日本の文化が少し似ているのか簡単に考えてみたが、
「新世紀」と「新元号」による時代のピリオド・新しい幕開けというシンボリックさや、
現代の長期化政権による閉塞感や終わりの見えない経済問題の直面化が、二つの時代の共通点として挙げられよう。
コロナ禍において更に長引きそうな鬱屈さが求める文化芸術は、しばらくは20世紀末日本のそれに似たものかもしれない。
文化人類学者のスヴェトラーナ・ボイムは、ノスタルジーを「復旧的ノスタルジー」と「反省的ノスタルジー」の二つに分けている。
「復旧的ノスタルジー」は単一の筋書き、特定の時代や国家や宗教への回帰を志向する。しかしこれは実現不可能な望みである。
時間は巻き戻せないし、理想郷を概念づけて立ち返る場所を決定するのは無理な話だ。
対して「反省的ノスタルジー」は理想に思う国家や神話を再建するのではなく、そこに宿る細部や断片(個人的な記憶や文化的な記憶)を愛する。
前者に対してこちらのノスタルジーは、作り手がいる限り実行可能だ。
時代の巻き戻しはできないが、ファッションが回るようにカルチャーも回っていくのである。