30分のオンライン英会話を毎日の習慣に取り入れてから早くも三ヶ月経った。
始めた動機は、今までの英語学習が読み書きに特化したものであり、自身の話す・聞く能力に不安を感じたためである。
三ヶ月で英語能力がどれほど上がったかは置いといて、今回は毎日の英会話を通して気付いたことを書く。
私の英語を話す能力は高くない。語彙も少ないし、使いこなせる言い回しも少ない。
しかし、画面を通して外国の先生と一対一で話さなければいけない以上、少ない引き出しでやりくりするしかない。
頭の中で考えたことを英語にしようと四苦八苦しているうちに、いつしか言葉にできることを考えるようになってしまった自分に気付いた。
これは日本語を話しているときには体感できない気づきであろう。
言葉が思考に限定をかけてしまうのである。
「言葉なしに思考はない」という現象は母国語においても共通であるだろう。
以下、修辞学者香西秀信の『教師のための読書の技術 思考量を増やす読み方』(2006)の一節を引用する。
例えば、自分の不快な感情を表現するのに「むかつく」という言葉しか持っていない子供は、
複雑な感情を単純な言葉でしか表現できないのではない。
「むかつく」という感情しか持てないのである。
複雑で微妙な表現のできない人間に、複雑で微妙な思考も感情もありはしない。
最近の英会話での気づきが、この本の一節と重なり、私は自身を反省した。
今まで私は物事の言語化が嫌いであった。
なぜなら、言語化しがたい複雑な感情を、既存の「言葉」に押し込んでしまうことはつまらないと感じていたからである。
しかし、そういった理由で、言語化の難しい物事をそのままに放置していくことは逃げであるし、退化であるのだ。
言語なしに思考は存在しない。自分の貧相な引き出しを充実させながら、随時その引き出しで戦っていこうと思う。
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オンライン英会話は主に、日々更新されるニュース記事についてディスカッションする形で行われる。
「この事件についてどう思う?」などといった会話は、意外と日常会話のなかで起こりえないものだから新鮮だ。
不慣れではあるが、これもまた一対一であるので何らかの自分の意見を頑張って発している。
思えば私はディスカッションも嫌いであった。
物事に対して思考したり、他人の話を聞くのは嫌いではないが、議論は嫌いであった。
他人の話を否定する気も起きないし、かといって共感する気も起きないのである。
高校では、二つの意見に分かれてグループで議論をするディスカッション合宿というものがあったが、全くやる気がなかった記憶がある。
知人と揉めても(上記の性格上、滅多にもめることはない)、対話の場を設けたいと思ったことは無い。
しかし、この性格が今の自分をつまらない人間にしているように思う。
自分は、なにかレポートや批評を書いても、議論が生まれそうな要素を排除する傾向がある。
理解を得ることが難しい要素を無意識的に避け、つっこみどころを作らないことを優先してしまう。
そのせいで、私が書く文章は、引っ掛かりもなく共感もなく、対話も生まれずただ平坦なものに留まっている。
情けなすぎる………。。。。とても落ち込んできた。
議論が苦手であるから、議論の機会をできるだけ避けようとしたゆえに、私はつまらない人間になっている。
私が現在勉強しているのは、近代/現代美術である。
取り扱う作品は、美術の歴史では未分化・未分類なものも多い。
これらの作品は、画家・批評家・キュレーター・その他多くの人の議論や批評により、
価値が検討され、美術史に組み込まれていく。
私がこの分野を研究する以上、他者と議論する能力は必須なのである。
私は未だ無知である。このような自己否定精神は気に入っており、直すつもりはない。
無知である自分を反省し、勉強を重ねていきたい。
しかし、私は無知だ・間違ってるかもしれない・他人に突っ込まれるかもしれない…といった恐怖を傍に置き、
勇気を出して批評していきたいし、議論の場にも参加していきたいと思う。
以上、オンライン英会話を通して得た気づきである。