忘れっぽい

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おうちで天然酵母パンをつくってみた

 

昨年6月に作った杏のコンポートを、食べ終わってシロップが残っている状態で2日ほど常温で放置してしまった。気泡も出ているしシンクに流すか…と蓋を開けたところ、シュワッという音とともに白ワインのような発酵香がして驚いた。

もしかしてこれって酵母が発生してる…?と思い調べてみると、発生条件が偶然揃っていたのだった。(パンの歴史を自力で辿れたことに感動↓↓あまりにも同じエピソードすぎ)

イーストの軌跡 | イースト研究室 | オリエンタル酵母工業株式会社

現在の主流であるふっくらとした"発酵パン"は、ちょっとした偶然から生まれたといわれています。
夏の日に、あるユダヤ人の女性が穀粉を水に浸そうとして、うっかり蜜を薄めたカメに入れ、そのまま忘れてしまいました。2、3日後、カメから甘酸っぱい匂いがしましたが、気にも留めずいつものように団子状に練って焼いたところ、一種の発酵パンができたそうです。

ちょっと不安もあるけどせっかくの機会と思い、このシロップを原液として強力粉を足し、酵母の元種を起こしてみた。ただ、果物の量や砂糖の比率、発酵力など正確に測れないため、様々なサイトや本を参考にしたものの、だいぶ適当に作った。

 

・丸パン

一番シンプルなものを…と思い、油や乳脂肪分を入れず、強力粉・水・砂糖・塩で作った丸パン。元種がどこまで発酵してくれるか分からず、つぎ足す強力粉の量の正解が難しかった。最後まで小麦がなかなか吸水してくれなくて、べちゃっとした生地をスプーンで天板に落とすかたちで焼いた。膨らみは今ひとつではあったが、グルテンはしっかりとしていて、もちもちと強い弾力があるパンになった。甘味もあってとても美味しかったし、市販のイーストで作ったパンとは全然違う味・風味・触感となった。

・カンパーニュ

天然酵母といったら、のイメージがあるカンパーニュ。元種を起こして一週間ほど経ってから作ったので、上手くいくか不安だった。酵母の生命力ってすごいと感動しました。カンパーニュは20パーセントほど全粒粉を混ぜてたのと、丸パンの反省を活かして水分量を少なめに。ずっとやってみたかったカンパーニュへのクープ入れも出来ました!かなり愛着わきますねこれは。きちんと膨らんで焼きあがったものの、みっちりとしてクラスト(気泡)は少なめ…。お店のカンパーニュのようにはいかなかった。でも酸味があって味は結構おいしく、色々なものをのせていただきました。

(画像の背景がトロピカルなグラデーションに‥)

今回起こした天然酵母でつくったパンはこの2種類。いずれも1~2次発酵に24時間ほど費やしました。分量などかなり適当に作ったのに、わりと美味しいパンができて勉強になりました。パンってすごい。

こうやって小麦や酵母に触れあってると、作り手としての人間って「主従関係」における「従」側であるように思える。

ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』で「人類は小麦の家畜」と言っていた。これは人類が狩猟採集民から農耕民に転じたことの表現。たしかにアフタヌーンティーなんかをみると、まさに小麦粉七変化といった様相で、私たちはいかに小麦の恩恵を受けているかがわかる。

また、料理家の土井善晴は、中島岳志との対談「一汁一菜と利他」のなかでこう言っていた。(

土井善晴先生×中島岳志先生「一汁一菜と利他」(1) | みんなのミシマガジン

まさに一木から仏さんを彫り出すように、きれいなものを彫り出すことです。きれいにしたら、あとはそのまま食べればいい。相手は自然ですから、おいしくないときもあります。それは自分の責任ではなく、ああそういうものだと、そのまま受け取ったらいい。

味噌などの発酵食品は微生物がおいしさを作っています。[...]人間はまずくすることさえできません。そういった毎日の要となる食生活が、感性を豊かにしてくれると私は思っています。

この夏目漱石の「夢十夜」第六夜で運慶が仁王像を掘るような感覚は、天然酵母パンを作るまで抱いたことはなかった。常に自然と対峙している農家さんや発酵食品の研究員さん、酒杜氏の方々にも無限のリスペクトです。

また、ドミニク・チェン先生(尊敬しております)は、ぬか床を育てた経験から、「発酵」を思考や創作・対話のプロセスでも登場する(すべき)ものとして考えるようになったという。

「発酵」というメタファーから考える、豊かな未来をデザインする方法 | Virtical Analysis | ダイヤモンド・オンライン

ぬか床の菌たちは、投入された野菜の糖質を発酵代謝して乳酸やアルコールを生み出します。インターネット空間でも、投入された発話に人々が群がり、何かしらの滋養(意味)を得て残留物(フィードバック)を残します。すると、この残留物が別の誰かの滋養になる……。発酵代謝と同じで、コミュニケーションも無限に連なっていくのです。

発酵というメタファーを通してこの現象を考えることは、コミュニケーションを「本質的にコントロールできないもの」として考えるフレームワークになると思ったんですよね。 

自分の自由意志が絶対的には働かないことを許容し、むしろプラスと考えること。

今回、料理の手段のひとつとしての「発酵」を学んだことをきっかけに、「発酵」の考えを拡張してみるのもありかもしれない。