先日公開された映画「花束みたいな恋をした」を観た。
言葉にできそうだと思った部分から順に、思ったことを書いて行こうと思う。
的外れだと思ったらごめんなさい。
<映画で観る坂元裕二>
「花束みたいな恋をした」は脚本家坂元裕二によるオリジナル恋愛映画である。
どのインタビューだったかは忘れたが、彼が2016年に書いた「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」について、
彼は最終的に音(有村架純)と練(高良健吾)の恋愛を成就させたくなかったと言っていた。
若い頃の恋愛のほとんどなんて、終わりがあるものだからと。
しかしそれは、フジテレビ側の意向によって叶わず、音と練は6年の時を超え、ファミレスで恋人となり物語は終わる。
映画「花束みたいな恋をした」では、2人の5年間の恋がファミレスで終わる。
特に大きな事件もなく、終わる。メインの登場人物も2人のまま、話は進み、終わる。
極め付けは、麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が、よこはまコスモワールドの観覧車に乗る最後のデート。
「いつ恋」の音と練が乗ることのできなかった、よこはまコスモワールドの観覧車だ。
音と練は観覧車に乗れなかったけれど、(おそらく)MotionBlue横浜から音漏れする<moon river>を聴けたという不朽の名シーン。
コスモワールドの観覧車を介した二作品の対比は、麦と絹の恋愛の終わりを強く実感させる。
劇中、2人で共有する溢れかえる幸せのなかに差し込まれる「はじまりは、おわりのはじまり」というモノローグ。
別れまでのカウントダウンである今作は、ドラマではあまり観られない坂元裕二作品なのだろう。
また、今作の特徴は、音楽や小説、映画など固有名詞の洪水にある。
これもまた、スポンサーなどの都合でテレビドラマでは実現できない手法であろう。
麦と絹が交わす固有名詞の洪水から私たちは、2人の仲睦まじさだったり、逆にすれ違いだったりを、理解することができる。
押井守 きのこ帝国 今村夏子 cero 粋な夜電波 前田裕二 パズドラ……枚挙に暇がない。
(カルチャーを共有することで特別な絆を築く2人の様子はまさにEnjoy Music Clubの名曲<100%未来>だ。)
固有名詞の代わりに、今作で登場回数が少ないのが「名言めいたセリフ」だ。
坂元裕二の書くセリフはそのパンチラインの鮮烈さゆえになにかと注目を浴び、すぐネットにまとめられたり、ランキングを作られたりする。
それはもちろん完全悪ではないが、坂元裕二作品の一番の魅力はそこではないと(私は)言いたい。
テレビドラマ「anone」で、青葉るい子(小林聡美)が言う「名言っていいかげんですもんね」というセリフも、
「カルテット」で散々まとめられた名言に対する坂元裕二の遠回しなアンサーに思えてしまう。
(それでも坂元裕二のセリフの強度は凄まじいし、魅力的です)
私は坂元作品の魅力は、大きな(抽象的な)言葉で織られたセリフではなく、
小さな(具体的な)言葉で織られたセリフ、そこに付随する動作、演者たちの発話にあると思う。
坂元自身が、「プロフェッショナル 仕事の流儀」で語った言葉を以下引用したい。
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「私、この人のこと好き 目キラキラ」みたいなのは
そこには本当はない気がするんですよね
バスの帰りで雑談をして
バスの車中で「今日は風が強いね」とか
「前のおじさん寝ているね」「うとうとしているね」とか
そんな話をしながら
「じゃあね」って帰って行って家に着いて
一人でテレビでも見ようかなって思ったけどテレビを消して
こうやって紙を折りたたんでいるときに
「ああ、私、あの人のこと好きなのかもな」って気が付くのであって
小さい積み重ねで人間っていうのは描かれるものだから
僕にとっては大きな物語よりも
小さい仕草で描かれている人物をテレビで見るほうが
とても刺激的だなって思うんですよ
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彼自身が語るこの言葉こそ、坂元作品の最大の魅力であろう。
そしてこの魅力は、固有名詞が積み重なっていく今作で、遺憾なく発揮されている。
反対に、絹の母(戸田恵子)によって発される「社会にでるってことは、お風呂に入ることなの」というセリフは、
なんだか坂元裕二名言集っぽいセリフではあるが、
これが2人の現状維持を阻むものであるのは、名言という存在に対しての皮肉のようだ。
以上、映画でみる坂元作品としての今作の特徴を挙げてみた。
けれど、なんだか、この作品の魅力を伝えるのには全然成功していない気がする。
<恋愛の系譜>
先ほども書いたように、2人の恋愛は5年で終止符が打たれる。
その恋愛の終わりは、2人の馴れ初めから見守ってきた私たちにとって、とても心苦しいものであった。
最後のファミレスで、辿々しい口調で好きなものを共有する凛(清原伽耶)と亘(細田佳央太)と、2人が履くお揃いのジャックパーセルを
見つめる麦と絹の表情に、胸を締め付けられた。
麦と絹が共有していた特別なきらめきが、月日を重ねるごとに共有できなくなっていく様、
掲げていた現状維持という目標と生活が少しずつ崩れていく様を追うことで、
私たちはいずれ来る2人の別れに心の準備をしていたつもりなのに、
麦と絹が、凛と亘にもう戻れない過去の自分たちの姿を見出し、涙を流すシーンで、
そんな心の準備は何の役にも立たないほど、心が痛くなってしまった。
なんだか観賞後も、2人の別ればかりが頭を離れず、気持ちが沈んでしまう。
それでもこの映画をバッドエンドだと決めつけず、
「我々のこれまでの道のりは美しかった。あと一歩だった。」という言葉を掲げ、
お互いの背に健闘を祈るように手を挙げて別々の道を歩き出した麦と絹の将来に、希望のひかりを見出したい。
「東京ラブストーリー」(1991年)は坂元裕二が脚本を担当し、今も尚テレビドラマ史に残る大ヒットドラマである。
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恋愛はさ、参加することに意義があるんだから、たとえ駄目だったとしてもさ。
人が人を好きになった瞬間って、ずっと、ずっと残っていくものだよ。
それだけが、生きていく勇気になる。暗い夜道を照らす懐中電燈になるんだよ。
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赤名リカ(鈴木保奈美)のこのセリフは、たとえ終わってしまった恋愛も、
その後の人生を照らすものになると説いている。
「報われなかった恋も、形にならなかった恋も、伝えられなかった恋も、
人が人を好きになった瞬間がある限り、ずっと残っていくものだ。」という全恋愛に対しての肯定は、
その後の坂元裕二作品で、形を変え言葉を変え、変奏され続けている。
この主張は、私が考えたものでは決してないことを言わなければならない。
「青春ゾンビ」という、カルチャーに対して鋭い視座と深い愛を持ったブログにて
坂元裕二の恋愛の系譜は丁寧に書かれている。
坂元裕二の書く恋愛のきらめきについて、とても素敵な言葉で書かれているので、
「花束みたいな恋をした」を観た全ての方に読んでほしい…。
私なんぞがこのテーマについて、自分の言葉でオリジナリティを持って語れるとは思わないので、
それは敬愛する「青春ゾンビ」さんに託したい。
とにかく、「東京ラブストーリー」で語られた恋愛のもつ希望は、
その後の坂元作品の「最高の離婚」、「不帰の初恋、海老名SA」、「それでも、生きてゆく」
「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」、「カルテット」などなど…
多くの輝かしい名作で変奏されているのだ。
そして、それは「花束みたいな恋をした」でも決して例外ではない。
今作は、坂元裕二の書く恋愛の系譜を継いでいる。
カルテット8話、最高です。
これは余談であるが、麦と絹が名付けた猫のバロンは間違いなく宮崎駿のオマージュである。
宮崎駿を介して坂元と繋がるサン=テグジュペリの「星の王子様」から、キツネと王子様の会話を一部抜粋したい。
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「『なつく』ってどういうこと?」
「ずいぶんわすれられてしまってることだ」キツネは言った。
「それはね、『絆を結ぶ』ということだよ……」
「絆を結ぶ?」
「そうとも」とキツネ。
「ぼくの暮らしは単調だ。ぼくがニワトリを追いかけ、そのぼくを人間が追いかける。ニワトリはどれもみんな同じようだし、人間もみな同じようだからぼくは、ちょっとうんざりしてる。でも、もしきみがぼくをなつかせたくれたら、ぼくの暮らしは急に陽が差したようになる。ぼくは、ほかの誰ともちがうきみの足音がわかるようになる。
ほかの足音なら、ぼくは地面にもぐってかくれる。でもきみの足音は、音楽みたいに、ぼくを巣の外へいざなうんだ。それに、ほら!むこうに麦畑が見えるだろう?ぼくはパンを食べない。だから小麦にはなんの用もない。麦畑を見ても、心に浮かぶものもない。それはさびしいことだ!でもきみは、金色の髪をしている。
そのきみがぼくをなつかせてくれたら、すてきだろうなあ!金色に輝く小麦を見ただけで、ぼくはきみを思い出すようになる。麦畑をわたっていく風の音まで、好きになる……」
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キツネが「絆を結ぶ」という意味で使う「なつく」という言葉は、
恋愛関係だけを指す言葉ではない。
しかし、恋愛に置き換えたときに、坂元作品に変奏される恋愛論に重なってくる。
誰かと絆を結んだ思い出は、暮らしに陽を差し、自分を取り巻くなんてことのない日常も輝かせるのだ。
2020年以降もどこかで生き続ける麦と絹は、お互いの思い出を光にして、暮らしを続けていくのだろう。
この映画の終わりを前向きに捉えたい。
<SMAPの「たいせつ」>
この映画には主題歌が存在しない。
その理由のひとつはおそらく、劇中に登場する多くの曲名・アーティスト名を、
最後に流れる主題歌に収束させたくなかったからだろう。
主題歌を設定するとどうしても、劇中歌との間に力関係が生じてしまう。
実際この映画のエンドロールで流れるのは、大友良英のインストゥルメンタルである。
エンドロールに流れる歌がないという采配が最善手なのは間違いないが、
それでも、この映画を締めるのに一番ふさわしい歌はSMAPの「たいせつ」であるに違いない。
(エンドロールに流せと言っている訳ではない。
物語の最後にこの曲が登場することに注目したい。)
劇中では様々な固有名詞が洪水のように発される。
私たちに身近なものもあれば、全く知らないものもあるだろう。
そのなかで、物語の一番最後に新しく登場する固有名詞が、SMAPの<たいせつ>。
絹が、麦と付き合っていたとき聴いた音楽として回想する歌だ。
SMAPの<たいせつ>は1998年、<夜空ノムコウ>の次に発売されたシングルだ。
(私と同い年!嬉しい。自分の生年と公開年が同じドラえもん映画を特別視してしまう現象)
この曲の歌い出しが以下である。
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夕暮れがきて ビルも舗道もはなやぐ
信号待ち 君は助手席で
渋滞の街 見上げて
うれしそう I Wonder
ささやかでもそれぞれに
暮らしなのねと Just ホロリ
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恋愛関係にある(もしくはこれから発展する)男女が、
夕方~夜、自動車に乗り、渋滞の街を進んでることが歌からは推測できる。
劇中で麦と絹は一度も自動車には乗っていない。電車のモチーフは何度も登場するのに対して、だ。
自動車は麦と絹をアトリビュートするモチーフではない。
では、車の中で渋滞の街を見上げ、「ささやかでもそれぞれに暮らしなのね」と泣くのは誰であろうか。
私は、それは2時間弱2人の恋愛模様を見守ってきた観客私たちであり、
それゆえこの歌が映画の終わりに需要な役割を持っていると思いたい。
物語の最後、それぞれの部屋で夕食をとる麦と絹のシーンでは印象的に窓が映される。
同棲時に部屋の内部から2人の暮らしを見守ってきた私たちは、
部屋を飛び出し、窓の外からそれぞれを観るのだ。
夜の部屋の明かりは暗がりを照らし、まさに外から「はなやいで」見える。
私たちは麦と絹の2人から視線を遠ざけ、街の明かりに収斂させる。
その街の明かりひとつひとつにある、ささやかなそれぞれの暮らしに涙するのだ。
自動車のフロントガラスはあたかも映画のスクリーンのようである。
麦と絹の恋愛の観察を終え、街を見上げてその美しい普遍性に気づいた私たちのことまで
歌ってくれているように思ってしまう。
ありがとう、SMAP……
この曲が映画の最後に登場してくれたことが嬉しい。
麦と絹の間に交わされる固有名詞は必ずしも有名ではないものがほとんどだったが、
最後の最後にSMAPという超ド級の名詞を登場させてきたこと。
この映画においてSMAPの<たいせつ>は重要な役割を持っているように思う。
サビの歌詞まではここには書かないが、
SMAPはすべての人々に向けて、平等に、励ましと愛のメッセージを送っている。
もちろん、その対象は麦と絹でもあるし、映画の他の登場人物でもあるし、我々でもある。
数々の名曲を送り出し、時代を生きる人々を励ましたSMAPは解散しても尚スーパースターなんだなぁ…
SMAPがいない時代を生きる私たちをも励ましてくれる存在だ。
(人はスーパーマンじゃないと歌っているけど、SMAPは間違いなくスーパーだ)
<タイトルについて>
「花束みたいな恋をした」というタイトルは一体何を意味するものだったのだろうか。
劇中に何度か印象的に花束は視覚に入り込んでくるが、それが大きく物語を変える要素にはなっていない。
花束自体が物語を動かしたわけではないのなら、タイトルの指す「花束」は何かの暗喩なのかもしれない。
物語に「花」について言及するセリフに、
絹「女の子に花の名前を教わると、男の子はその花を見るたびに一生その子のこと思い出しちゃうんだって」
というセリフが挙げられる。
この言葉自体は、映画オリジナルでも坂元裕二オリジナルのものでもない。
実際、絹も「恋愛生存率」というブログからの受け売りであるし、
遡れば、川端康成の『掌の小説』でも有川浩の『植物図鑑』でも同様のことは書かれている。
花の名前は2人の恋人にとって特別な言葉になり、それは別れた後もずっと恋人を象徴するものとして残るのだ。
しかし絹は結局麦に、花の名前を教えていない。
「花束みたいな恋をした」のなかで花の役割を残すのは花の名前ではない。
麦と絹にとっての花は、今村夏子であり、天竺鼠であり、滝口悠生であり、ゼルダの伝説、awesome city clubなのだ。
(麦と絹が歌ったきのこ帝国の<クロノスタシス>の一節「クロノスタシスって知ってる?」は、名詞を共有しあう2人を象徴するだろう)
これらの名詞は2人にとって特別なものであり、これからもお互いを思い出し、5年間の恋愛を象徴する言葉となる。
物語に書かれていない2020年暮れの彼らは、原美術館の閉館に、天竺鼠瀬下の相席食堂に、今村夏子『星の子』の映画化にお互いを思い出すだろう。
2人にとっての特別な固有名詞が、花という言葉で置き換えられ、その集合が花束という意味で、
「花束みたいな恋をした」というタイトルを受け止めることができよう。
しかし、2人の特別性を指すと同時に、普遍性という反対の意味をも内包するように思う。
先ほど、SMAPの<たいせつ>について書いたときも述べたが、
物語の最後に、麦と絹の暮らしはそれぞれ窓明かりとなり、はなやぐ夜の街に収斂されていく。
色とりどりの暮らしが光となり、夜景を作り上げる様は、
ひとつひとつの花の集まりである花束と類似するだろう。
人々の暮らしはすべてそれぞれ特別で固有のものであるが、
それらの特別も、集まることで普遍となる。
花⇄花束 窓明かり⇄夜景 と眼のピントを変えることで、
麦と絹の暮らしは、特別なものでもあるし、普遍的なものでもあると読み取ることができる。
そして、特別でありながら普遍であるのは、何も麦と絹だけではない。誰の暮らしでもそうなのであろう。