忘れっぽい

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『ひとはなぜ戦争をするのか』感想・「戦争と文化」

ひとはなぜ戦争をするのか(講談社学術文庫 2016年刊行)

著:A・アインシュタイン/S・フロイト

  養老孟子斎藤環

訳:浅見省吾

 

いま人がこの本を手に取るきっかけとなるのは、おそらくロシアによるウクライナ侵攻だろう。戦争は、かたちを変えながら絶えることなく世界に存在し続けている。

 

本書では、ユダヤ系の流れをひきながら第一次・二次大戦のヨーロッパを生きた、アインシュタインフロイトが、

そして、北朝鮮の軍事行為やイスラムのテロ、イランイラク戦争を見つめる養老孟司斎藤環がそれぞれ「戦争」をテーマに文章を筆をとっている。

今なお無くならない戦争を、時代をまたいだ4人の巨匠はどのように分析するのだろうか。

 

本書の第一部は、第一次世界大戦と二次大戦のはざまである1932年に、

物理学者アインシュタインと心理学者フロイトが送りあった往復書簡。

きっかけは、国際連盟アインシュタインに「好きな相手を選んで、好きなテーマで意見を交わす」よう依頼したもの。

アインシュタインが文通相手に選んだフロイトへ投げかけたのは、

「ひとはなぜ戦争をするのか?人間を戦争というくびきから解き放つために、いま何ができるのか?」というテーマだった。

このテーマで各分野の大家である2人が論を交わすのが第一部である。

そして、第二部は、一部の往復書簡に返答する形で執筆された、解剖学者・養老孟司精神科医斎藤環の論考で構成される。

 

第一章は、発刊元である講談社の『現代ビジネス』(https://gendai.media/articles/-/94347)で詳しく解説されているので、そちらに託したい。

 

ここで私が取り上げたいのは、20世紀前半の欧州を生きた2人の往復書簡から、おそらく80年ほど後に書かれた、養老・斎藤の論考から見出せる「希望と絶望」である。80年をまたぎ、世界は確実に「戦争」への解析度をあげている。しかし同時に「戦争」は消滅していない。その希望と絶望である。

 

アインシュタインおよびフロイトの書簡では、まだ発足して間もない「国際連盟」という国を超えた組織に希望を抱きつつも、なお無くならないであろう人間の暴力的欲求を考察するものであった。

 

そしてそれを受け取った養老と斎藤の論考は、第二次世界大戦を顧みるとともに同時代を見つめたものであって、アインシュタインたちの書簡よりも「戦争」に対する解析度が段違いに高いのだ。往復書簡に書かれた抽象的で古典的な分析を、具体的で同時代的に置き換え、より進んだ考察を行っていると断言できよう。現代を生きる2人が、数多のかたちの戦争をどう鮮やかに捉えているかは是非本書を読んでいただきたいところだ。

兎にも角にも、歳月や経験、そして研究の積み重ねが人間の思考を進化・熟成させるのだと間違いなく確信できる。

 

フロイトアインシュタインへの返答のなかで最後に記したのは、「人間が文化的になっていくこと」への希望である。

「文化が生み出すもっとも顕著な現象は二つです。一つは知性を強めること。力が増した知性は欲望をコントロールしはじめます。二つ目は、攻撃本能を内に向けること。文化の発展が人間にこうした心のあり方ーーこれほど、戦争というものと対立するものはほかにありません。(略)文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」(pp.54-55)



フロイトの時代から文化的に発展してきた現代、そしてその発展を牽引してきた養老と斎藤の鮮やかな論考からは、戦争の終焉に人間が歩みだしていることが見て取れる。フロイトの最後の予言は確かに当たっているのである。

以下に斎藤の「戦争の終焉を推し進める文化」についての見解を引用する。

 

「文化とは(略)人間の価値観を規定するものです。逆に、価値観を文化として洗練していけば、あらゆる価値の起源として『生きてそこにいる個人』にゆきあたるはずです。つまり文化の目的とは、常に個人主義の擁護なのです。そうなると、いかなる場合にも優先されるべき価値として、『自由』『権利』『尊厳』が必然的に導かれるでしょう」(p.110)

 

この珠玉の文言は、フロイトの言う文化の現象「知性を強めること」の効果を具体的に記しているものである。

「戦争」は間違いなく『自由』『権利』『尊厳』を個人から剥奪するものである。

そんな「戦争」に反するものが「文化」であり、終焉に導くものこそが「文化の発展」なのだ。

 

私は、80年を経て提示されたこの答えこそが、「文化の発展」を象徴しているように思う。20世紀を代表する偉大な2人の学者と現代を代表する2人の日本人を繋いだ歳月が、介在する沢山の人々が、文化を発展させ・戦争を終焉へと導いているのではないだろうか。

この気づきが本書における「希望」である。

 

しかし、今現在、21世紀最大とも言われる戦争が行われている。

その戦争は終焉の兆しさえ見せていない。

この点に、「文化の発展が戦争を終わらせる」と結論づけた本書の「絶望」が見出される。

やはり、戦争が勃発し人が多く犠牲になるそのスピードと比較して、文化の発展というのはあまりに遅い。

弾道ミサイルが耕土を灰塵に帰す一方で、文化ができるのは一杯ずつの雪かきなのだろうと身につまされる。(これは村上春樹が言うところの「文化的雪かき」、だ。)*1

この絶望的な差について、本書では詳しく触れられていない。

それは、4人が文章を書いたどの時期にも、当事者的な戦争がオンタイムで行われていなかったのが原因にあるかもしれない。

ただ、今読んでいる私たち読者にとっては「文化の発展」を悠長に待つ余裕などないのだ。

 

フロイトが言うに、文化は人間を「ほとんど気づかないかもしれないが」肉体レベルで、有機的レベルで変化させる。

その変化が戦争を追い越し、先回りして勃発を食い止めることができるのだろうか。

「人間を戦争というくびきから解き放つために、いま何ができるのか?」

それを思考せねばいけないのは、文化の発展を促進しなければならないのは、

フロイトアインシュタイン養老孟司斎藤環から手紙を渡された私たちなのであろう。その返答はあまりに難しい。

*1:坂元裕二の「耳かき一杯」も思い出しますね

おいしいせいろ蒸し

最近中華せいろを使っての料理にはまっています。

時短でヘルシーで美味しくて、最強の調理法なのでは…と思うようになりました。

中華せいろは意外と1000円くらいで購入できるしお手入れも楽なので、

お手軽な調理器具だと思います。

料理好きな人はもちろん、

料理が苦手な人、忙しい人、栄養が偏っている人にもぴったりなんじゃないかと思い、

最近作ってみたものをまとめてみます。

 

・中華せいろの使用方法について

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まずせいろが乗る大きさの鍋やフライパンに水を張って火にかける。

せいろに食材を入れる。場合によってはクッキングシートや葉物野菜を敷いてから。

沸騰して湯気が出たら、食材を入れたせいろを乗せて蒸す。(湯気で食材に火を通します)

蒸している最中は、鍋に張った水が蒸発しきって空焚きにならないように注意すること。

水が無くなりかけたら適宜水(お湯)を足す。

という感じです。空焚きは注意だけど、そんなに蒸し時間長い料理も無いのであまり大変じゃ無いです。

ガス火とIHどっちも試してみたところ、IHの方がガス火より1.5倍くらい蒸し時間がかかるなと思いました。

 

 

・お食事系レシピ

続いて何品か簡単なせいろ料理を。しかし、自分用の写真なのであまり見た目が良くないです。。

 

①野菜・きのこ・魚・お肉蒸し

お手軽度★★★

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なんでも適当にせいろに敷いて一緒に蒸しちゃうとても簡単なレシピです。

ポイントとしては葉物野菜やもやしなどを一番下に敷き詰めて、重ねていくこと。

油物や潰れたら困るものは一番上に。

ポン酢やお塩、柚子胡椒で食べるのが美味しいです!

一番美味しかったのは、春菊とお豆腐と鮭の組み合わせです。

もちろん豚肉ときのこの組み合わせなんかも間違いなかったです。

 

②焼売

お手軽度★☆☆

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中華せいろといったら王道の!エビ蒸し焼売を作りました。

タネ作って包んでの作業はスキップできないので手軽ではないですが、蒸すの自体は簡単だし美味しかったです。

冷凍の焼売やお惣菜の温めをせいろでやっても美味しそう!

同じ要領で蒸し餃子や小籠包も出来そうですね。

 

③食パン

お手軽度★★★

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これが世紀の大発見…!食パンをせいろで蒸すと本当に美味しい!

イースト菌の味がする。ホームベーカリーから出したてのようなふわふわもちもち感。

異様な美味しさ。一番の大ヒット。食パンの食べ方で一番好き。

という大興奮の感動です。

クッキングシートを敷いて、食パンを置いて蒸すだけの簡単さ。

野菜やウインナーも一緒に入れちゃったって良いのです。火の通りに差がある食材を入れたかったら時間差で。

食パン自体は2−3分で火が通ります。

個人的には、冷凍した状態の食パンをそのまませいろに入れて蒸すのが一番美味しかったです。水分量が多くなるのかな?

2枚目の飲み物は、庭のローズマリーをリンゴジュースに入れて一晩冷やしたワイルド美味しい野趣味あふれる飲み物です。

 

④茶碗蒸し

お手軽度★★★

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卵:出汁を希釈した水を1:3にして、一回濾して容器に流し入れ、

弱火〜中火に15分ほどかけるだけ。

茶碗蒸しは手間がかかるしスが入りやすくて難しいという印象が覆りました。

スは全く入らず口どけ滑らかで感動的に美味しい…!

入れる具だってなんでもいいので、冷凍したほうれん草とかえび、きのこ、かまぼこなどその日冷蔵庫にあるものを適当に入れてます。

もう一品欲しいな〜と思った日によく作る料理になりました。

 

番外編 アボカドの中華せいろ蒸し

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これ大好きな中華料理やさん「豊栄」の看板メニューなんですが、

似たような感じでアボカドをお皿に入れて蒸したらとても美味しかったです。

家ではお醤油・鶏ガラスープの素、ラー油なんかを適当に入れました。

 

・おやつ系レシピ

 

①プリン

お手軽度★★★

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茶碗蒸しを作る要領でプリンも。

素朴な家庭プリンの味でとても美味しかったです。滑らかだし綺麗に固まった!

写真は豆乳プリンで、緩めのカラメルをかけたもの。

松代焼の食器たちがとてもかわいい!松代焼はブルーの釉薬が特徴です。

 

鬼饅頭

手軽度★★☆

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名古屋名物鬼まんじゅう

サイコロ切りにしたサツマイモを、小麦粉にまとわせて蒸す料理です。

サツマイモを下準備でレンジで蒸しておく必要が無いのがとても楽です。

水にさらしてアク抜きしたサツマイモをそのまま生地と合わせて蒸すだけ。

 

③さつまいもとあんこのお饅頭

手軽度★☆☆

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これ去年のお月見に作ったのですが、熱したフォークでうさぎの顔を焼き付けてみたものの、フォークの限界を感じたので途中でやめました。

サツマイモあんとあんこをそれぞれ生地に包んで蒸したもの。

成形する手間はかかりますが、ふっくらツヤツヤで美味しかったです。

同様の要領でおやきも作れると思います。

 

④蒸しパン

お手軽度★★☆

写真は撮っていないのですが、りんご蒸しパンや紅茶蒸しパンなど作りました。

大きさによっては湯気で水っぽくなりすぎちゃう恐れがあるので、火の調節やお湯との距離が大切かも。

でも美味しいし、楽でした。

蒸しパンの一種ですが、次挑戦したいのは中国広東地方の甘い蒸しパン、マーラーカオ

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ちょっと入れるお醤油のコクが良いらしい。写真のようにせいろいっぱいに作ってみたい!

 

以上、最近はまっているせいろ蒸しについてまとめてみました。

これからもせいろの可能性を探究していきたいと思います。

花束みたいな恋をした

 

先日公開された映画「花束みたいな恋をした」を観た。

言葉にできそうだと思った部分から順に、思ったことを書いて行こうと思う。

的外れだと思ったらごめんなさい。

 

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<映画で観る坂元裕二

 

「花束みたいな恋をした」は脚本家坂元裕二によるオリジナル恋愛映画である。

どのインタビューだったかは忘れたが、彼が2016年に書いた「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」について、

彼は最終的に音(有村架純)と練(高良健吾)の恋愛を成就させたくなかったと言っていた。

若い頃の恋愛のほとんどなんて、終わりがあるものだからと。

しかしそれは、フジテレビ側の意向によって叶わず、音と練は6年の時を超え、ファミレスで恋人となり物語は終わる。

 

映画「花束みたいな恋をした」では、2人の5年間の恋がファミレスで終わる。

特に大きな事件もなく、終わる。メインの登場人物も2人のまま、話は進み、終わる。

極め付けは、麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が、よこはまコスモワールドの観覧車に乗る最後のデート。

「いつ恋」の音と練が乗ることのできなかった、よこはまコスモワールドの観覧車だ。

音と練は観覧車に乗れなかったけれど、(おそらく)MotionBlue横浜から音漏れする<moon river>を聴けたという不朽の名シーン。

コスモワールドの観覧車を介した二作品の対比は、麦と絹の恋愛の終わりを強く実感させる。

 

劇中、2人で共有する溢れかえる幸せのなかに差し込まれる「はじまりは、おわりのはじまり」というモノローグ。

別れまでのカウントダウンである今作は、ドラマではあまり観られない坂元裕二作品なのだろう。

 

また、今作の特徴は、音楽や小説、映画など固有名詞の洪水にある。

これもまた、スポンサーなどの都合でテレビドラマでは実現できない手法であろう。

麦と絹が交わす固有名詞の洪水から私たちは、2人の仲睦まじさだったり、逆にすれ違いだったりを、理解することができる。

押井守 きのこ帝国 今村夏子 cero 粋な夜電波 前田裕二 パズドラ……枚挙に暇がない。

(カルチャーを共有することで特別な絆を築く2人の様子はまさにEnjoy Music Clubの名曲<100%未来>だ。)

 

固有名詞の代わりに、今作で登場回数が少ないのが「名言めいたセリフ」だ。

坂元裕二の書くセリフはそのパンチラインの鮮烈さゆえになにかと注目を浴び、すぐネットにまとめられたり、ランキングを作られたりする。

それはもちろん完全悪ではないが、坂元裕二作品の一番の魅力はそこではないと(私は)言いたい。

テレビドラマ「anone」で、青葉るい子(小林聡美)が言う「名言っていいかげんですもんね」というセリフも、

「カルテット」で散々まとめられた名言に対する坂元裕二の遠回しなアンサーに思えてしまう。

(それでも坂元裕二のセリフの強度は凄まじいし、魅力的です)

 

私は坂元作品の魅力は、大きな(抽象的な)言葉で織られたセリフではなく、

小さな(具体的な)言葉で織られたセリフ、そこに付随する動作、演者たちの発話にあると思う。

坂元自身が、「プロフェッショナル 仕事の流儀」で語った言葉を以下引用したい。

ーーーーーーー

「私、この人のこと好き 目キラキラ」みたいなのは
そこには本当はない気がするんですよね


バスの帰りで雑談をして
バスの車中で「今日は風が強いね」とか
「前のおじさん寝ているね」「うとうとしているね」とか
そんな話をしながら
「じゃあね」って帰って行って家に着いて
一人でテレビでも見ようかなって思ったけどテレビを消して
こうやって紙を折りたたんでいるときに
「ああ、私、あの人のこと好きなのかもな」って気が付くのであって 

 

小さい積み重ねで人間っていうのは描かれるものだから
僕にとっては大きな物語よりも
小さい仕草で描かれている人物をテレビで見るほうが
とても刺激的だなって思うんですよ

ーーーーーーー

彼自身が語るこの言葉こそ、坂元作品の最大の魅力であろう。

そしてこの魅力は、固有名詞が積み重なっていく今作で、遺憾なく発揮されている。

反対に、絹の母(戸田恵子)によって発される「社会にでるってことは、お風呂に入ることなの」というセリフは、

なんだか坂元裕二名言集っぽいセリフではあるが、

これが2人の現状維持を阻むものであるのは、名言という存在に対しての皮肉のようだ。

 

以上、映画でみる坂元作品としての今作の特徴を挙げてみた。

けれど、なんだか、この作品の魅力を伝えるのには全然成功していない気がする。

 

<恋愛の系譜>

先ほども書いたように、2人の恋愛は5年で終止符が打たれる。

その恋愛の終わりは、2人の馴れ初めから見守ってきた私たちにとって、とても心苦しいものであった。

最後のファミレスで、辿々しい口調で好きなものを共有する凛(清原伽耶)と亘(細田佳央太)と、2人が履くお揃いのジャックパーセル

見つめる麦と絹の表情に、胸を締め付けられた。

麦と絹が共有していた特別なきらめきが、月日を重ねるごとに共有できなくなっていく様、

掲げていた現状維持という目標と生活が少しずつ崩れていく様を追うことで、

私たちはいずれ来る2人の別れに心の準備をしていたつもりなのに、

麦と絹が、凛と亘にもう戻れない過去の自分たちの姿を見出し、涙を流すシーンで、

そんな心の準備は何の役にも立たないほど、心が痛くなってしまった。

 

なんだか観賞後も、2人の別ればかりが頭を離れず、気持ちが沈んでしまう。

それでもこの映画をバッドエンドだと決めつけず、

「我々のこれまでの道のりは美しかった。あと一歩だった。」という言葉を掲げ、

お互いの背に健闘を祈るように手を挙げて別々の道を歩き出した麦と絹の将来に、希望のひかりを見出したい。

 

東京ラブストーリー」(1991年)は坂元裕二が脚本を担当し、今も尚テレビドラマ史に残る大ヒットドラマである。

ーーーーーーーーー

恋愛はさ、参加することに意義があるんだから、たとえ駄目だったとしてもさ。

人が人を好きになった瞬間って、ずっと、ずっと残っていくものだよ。

それだけが、生きていく勇気になる。暗い夜道を照らす懐中電燈になるんだよ。
ーーーーーーーーー

赤名リカ(鈴木保奈美)のこのセリフは、たとえ終わってしまった恋愛も、

その後の人生を照らすものになると説いている。

 

「報われなかった恋も、形にならなかった恋も、伝えられなかった恋も、

人が人を好きになった瞬間がある限り、ずっと残っていくものだ。」という全恋愛に対しての肯定は、

その後の坂元裕二作品で、形を変え言葉を変え、変奏され続けている。

 

この主張は、私が考えたものでは決してないことを言わなければならない。

「青春ゾンビ」という、カルチャーに対して鋭い視座と深い愛を持ったブログにて

坂元裕二の恋愛の系譜は丁寧に書かれている。

坂元裕二の書く恋愛のきらめきについて、とても素敵な言葉で書かれているので、

「花束みたいな恋をした」を観た全ての方に読んでほしい…。

 

私なんぞがこのテーマについて、自分の言葉でオリジナリティを持って語れるとは思わないので、

それは敬愛する「青春ゾンビ」さんに託したい。

 

とにかく、「東京ラブストーリー」で語られた恋愛のもつ希望は、

その後の坂元作品の「最高の離婚」、「不帰の初恋、海老名SA」、「それでも、生きてゆく」 

いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」、「カルテット」などなど…

多くの輝かしい名作で変奏されているのだ。

そして、それは「花束みたいな恋をした」でも決して例外ではない。

今作は、坂元裕二の書く恋愛の系譜を継いでいる。

 

f:id:wk_eng3:20210201012041j:imageカルテット8話、最高です。

 

これは余談であるが、麦と絹が名付けた猫のバロンは間違いなく宮崎駿のオマージュである。

宮崎駿を介して坂元と繋がるサン=テグジュペリの「星の王子様」から、キツネと王子様の会話を一部抜粋したい。

宮崎駿サン=テグジュペリから影響を受けている)

ーーーーーーーーー

「『なつく』ってどういうこと?」
「ずいぶんわすれられてしまってることだ」キツネは言った。

「それはね、『絆を結ぶ』ということだよ……」
「絆を結ぶ?」
「そうとも」とキツネ。

 

「ぼくの暮らしは単調だ。ぼくがニワトリを追いかけ、そのぼくを人間が追いかける。ニワトリはどれもみんな同じようだし、人間もみな同じようだからぼくは、ちょっとうんざりしてる。でも、もしきみがぼくをなつかせたくれたら、ぼくの暮らしは急に陽が差したようになる。ぼくは、ほかの誰ともちがうきみの足音がわかるようになる。
ほかの足音なら、ぼくは地面にもぐってかくれる。でもきみの足音は、音楽みたいに、ぼくを巣の外へいざなうんだ。それに、ほら!むこうに麦畑が見えるだろう?ぼくはパンを食べない。だから小麦にはなんの用もない。麦畑を見ても、心に浮かぶものもない。それはさびしいことだ!でもきみは、金色の髪をしている。
そのきみがぼくをなつかせてくれたら、すてきだろうなあ!金色に輝く小麦を見ただけで、ぼくはきみを思い出すようになる。麦畑をわたっていく風の音まで、好きになる……」

ーーーーーーーーー

キツネが「絆を結ぶ」という意味で使う「なつく」という言葉は、

恋愛関係だけを指す言葉ではない。

しかし、恋愛に置き換えたときに、坂元作品に変奏される恋愛論に重なってくる。

誰かと絆を結んだ思い出は、暮らしに陽を差し、自分を取り巻くなんてことのない日常も輝かせるのだ。

 

2020年以降もどこかで生き続ける麦と絹は、お互いの思い出を光にして、暮らしを続けていくのだろう。

この映画の終わりを前向きに捉えたい。

 

SMAPの「たいせつ」>

この映画には主題歌が存在しない。

その理由のひとつはおそらく、劇中に登場する多くの曲名・アーティスト名を、

最後に流れる主題歌に収束させたくなかったからだろう。

主題歌を設定するとどうしても、劇中歌との間に力関係が生じてしまう。

実際この映画のエンドロールで流れるのは、大友良英インストゥルメンタルである。

エンドロールに流れる歌がないという采配が最善手なのは間違いないが、

それでも、この映画を締めるのに一番ふさわしい歌はSMAPの「たいせつ」であるに違いない。

(エンドロールに流せと言っている訳ではない。

物語の最後にこの曲が登場することに注目したい。)

 

劇中では様々な固有名詞が洪水のように発される。

私たちに身近なものもあれば、全く知らないものもあるだろう。

そのなかで、物語の一番最後に新しく登場する固有名詞が、SMAPの<たいせつ>。

絹が、麦と付き合っていたとき聴いた音楽として回想する歌だ。

 

SMAPの<たいせつ>は1998年、<夜空ノムコウ>の次に発売されたシングルだ。

(私と同い年!嬉しい。自分の生年と公開年が同じドラえもん映画を特別視してしまう現象)

 

 

この曲の歌い出しが以下である。

ーーーーーーー

夕暮れがきて ビルも舗道もはなやぐ
信号待ち 君は助手席で
渋滞の街 見上げて
うれしそう I Wonder

ささやかでもそれぞれに
暮らしなのねと Just ホロリ

ーーーーーーー

 

恋愛関係にある(もしくはこれから発展する)男女が、

夕方~夜、自動車に乗り、渋滞の街を進んでることが歌からは推測できる。

劇中で麦と絹は一度も自動車には乗っていない。電車のモチーフは何度も登場するのに対して、だ。

自動車は麦と絹をアトリビュートするモチーフではない。

 

では、車の中で渋滞の街を見上げ、「ささやかでもそれぞれに暮らしなのね」と泣くのは誰であろうか。

私は、それは2時間弱2人の恋愛模様を見守ってきた観客私たちであり、

それゆえこの歌が映画の終わりに需要な役割を持っていると思いたい。

 

物語の最後、それぞれの部屋で夕食をとる麦と絹のシーンでは印象的に窓が映される。

同棲時に部屋の内部から2人の暮らしを見守ってきた私たちは、

部屋を飛び出し、窓の外からそれぞれを観るのだ。

夜の部屋の明かりは暗がりを照らし、まさに外から「はなやいで」見える。

私たちは麦と絹の2人から視線を遠ざけ、街の明かりに収斂させる。

その街の明かりひとつひとつにある、ささやかなそれぞれの暮らしに涙するのだ。

自動車のフロントガラスはあたかも映画のスクリーンのようである。

麦と絹の恋愛の観察を終え、街を見上げてその美しい普遍性に気づいた私たちのことまで

歌ってくれているように思ってしまう。

ありがとう、SMAP……

 

この曲が映画の最後に登場してくれたことが嬉しい。

麦と絹の間に交わされる固有名詞は必ずしも有名ではないものがほとんどだったが、

最後の最後にSMAPという超ド級の名詞を登場させてきたこと。

この映画においてSMAPの<たいせつ>は重要な役割を持っているように思う。

 

サビの歌詞まではここには書かないが、

SMAPはすべての人々に向けて、平等に、励ましと愛のメッセージを送っている。

もちろん、その対象は麦と絹でもあるし、映画の他の登場人物でもあるし、我々でもある。

数々の名曲を送り出し、時代を生きる人々を励ましたSMAPは解散しても尚スーパースターなんだなぁ…

SMAPがいない時代を生きる私たちをも励ましてくれる存在だ。

(人はスーパーマンじゃないと歌っているけど、SMAPは間違いなくスーパーだ)

 

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<タイトルについて>

「花束みたいな恋をした」というタイトルは一体何を意味するものだったのだろうか。

劇中に何度か印象的に花束は視覚に入り込んでくるが、それが大きく物語を変える要素にはなっていない。

花束自体が物語を動かしたわけではないのなら、タイトルの指す「花束」は何かの暗喩なのかもしれない。

 

物語に「花」について言及するセリフに、

絹「女の子に花の名前を教わると、男の子はその花を見るたびに一生その子のこと思い出しちゃうんだって」

というセリフが挙げられる。

この言葉自体は、映画オリジナルでも坂元裕二オリジナルのものでもない。

実際、絹も「恋愛生存率」というブログからの受け売りであるし、

遡れば、川端康成の『掌の小説』でも有川浩の『植物図鑑』でも同様のことは書かれている。

花の名前は2人の恋人にとって特別な言葉になり、それは別れた後もずっと恋人を象徴するものとして残るのだ。

 

しかし絹は結局麦に、花の名前を教えていない。

「花束みたいな恋をした」のなかで花の役割を残すのは花の名前ではない。

麦と絹にとっての花は、今村夏子であり、天竺鼠であり、滝口悠生であり、ゼルダの伝説awesome city clubなのだ。

(麦と絹が歌ったきのこ帝国の<クロノスタシス>の一節「クロノスタシスって知ってる?」は、名詞を共有しあう2人を象徴するだろう)

これらの名詞は2人にとって特別なものであり、これからもお互いを思い出し、5年間の恋愛を象徴する言葉となる。

物語に書かれていない2020年暮れの彼らは、原美術館の閉館に、天竺鼠瀬下の相席食堂に、今村夏子『星の子』の映画化にお互いを思い出すだろう。

 

2人にとっての特別な固有名詞が、花という言葉で置き換えられ、その集合が花束という意味で、

「花束みたいな恋をした」というタイトルを受け止めることができよう。

 

しかし、2人の特別性を指すと同時に、普遍性という反対の意味をも内包するように思う。

 

先ほど、SMAPの<たいせつ>について書いたときも述べたが、

物語の最後に、麦と絹の暮らしはそれぞれ窓明かりとなり、はなやぐ夜の街に収斂されていく。

色とりどりの暮らしが光となり、夜景を作り上げる様は、

ひとつひとつの花の集まりである花束と類似するだろう。

 

人々の暮らしはすべてそれぞれ特別で固有のものであるが、

それらの特別も、集まることで普遍となる。

花⇄花束 窓明かり⇄夜景 と眼のピントを変えることで、

麦と絹の暮らしは、特別なものでもあるし、普遍的なものでもあると読み取ることができる。

そして、特別でありながら普遍であるのは、何も麦と絹だけではない。誰の暮らしでもそうなのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読売新聞「美術館女子」

 

かなり前の話であるが、以前話題になった「美術館女子」の企画について少しだけ。

6月上旬に話題になった企画であるが、当時はあまりに嫌な気持ちになって冷静な気持ちでは向き合えなかった。

 

本企画は読売新聞と美術館連絡協議会の共同企画で、

「読売新聞で『月刊チーム8』を連載中のAKB48 チーム8のメンバーが各地の美術館を訪れ、写真を通じて、アートの力を発信していく」(公式サイトより)

というもの。その第1弾では、小栗有以が東京都現代美術館を訪れる様子を画像メインで伝えている。

(現在は大きな批判に晒され公開が終了している。)

 

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なぜこの記事が大きな批判を呼んだのか。

様々な観点から議論が交わされた本記事であるが、その中で2点を取り上げて自分なりの意見を記したい。

 

①美術館は「映え」の場所ではないという批判について。

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本記事は、小栗有以を主体とし美術作品を背景にした写真が何枚も載っている。

美術作品のピントはぼかされ、あくまで写真の主役は美術館に訪れた小栗さんである。

これに関して、「美術館は映えの場所でない」「美術作品は自分を映えさせるものではない。」という批判が生まれた。

もちろん、「映える美術作品を撮る」というのは美術鑑賞の第一義ではないだろう。

しかし、それが目的で美術館に訪れる人々を、どうして批判することができようか。

多様な美術鑑賞のあり方を批判することは、美術館のあり方を狭めているように思うし、

美術館側も散々「美術品と一緒に写真に撮ってインスタに載せよう」という企画を打ち出しているのだから、今更映えのための美術利用を批判するのもおかしい。

 

マルセル・デュシャンの研究者である平芳幸浩先生は、フェイスブックで「美術館女子」に集まる上記の批判について、以下のように意見していた。

(一部抜粋)

 

…「文化は無条件に尊重され守られねばならない」という理想論と「文化は無条件に尊重され守られるはずだ」という希望的観測とは切り離して考えなければな         らない。文化が無条件に尊重され守られてきたためしがないことは歴史が証明している。それ故に理想論は信念として主張され続けなければならないと思うが、現実的運用に対する戦略がないと理想論はいとも簡単に潰されていくであろう。…

 

日本において、口先では文化が大事だと言いながら、文化保護や文化推進に十分に力を入れていないのは、このパンデミックでも明らかになったことだろう。

文化政策について知識があまりないので、はっきりとは言えない。もっと勉強したい分野。)

平芳先生が言うように、「文化は尊重され守られるべき」という理想論を掲げながらも、それを実現する現実的運用から目を背けてしまえば美術館に未来はない。私たちが予想する以上に、美術館運営はシビアである。美術鑑賞の意味を狭義に閉じ込める意見は、美術館をつぶすことに繋がってしまうのではないか。

 

 

②女子に「無知の観客」の役割を担わせているという批判について。

私が言いたいことはまさにこれである。本当に嫌な気持ちになった…。

f:id:wk_eng3:20200813190922j:image

画像内にあるこの文章が問題である。

「知識がないとか、そんなことは全然、関係なし。見た瞬間の『わっ!!』っていう感動。それが全てだった。」

私は、感動を否定するつもりも、知識がない人が美術館に訪れることを否定するつもりももちろんない。

 

問題は、無知であることの肯定を若い女性(しかもアイドル)の発言として文章にしていることにある。

無知の象徴を若くて可愛い女性に担わせた、読売新聞と美連協の大人たちの思考の浅さに驚いた。

 

「知る」ということは、不条理な支配に抵抗するにあたって非常に重要な手段だ。

我々を支配する側の人間にとって、我々が正しい知識を得ることは好ましくない。

メディアの偏重報道も情報操作も、私たちを都合よく扱うために行われている。

中国の情報統制も、アメリカの地域や人種による情報格差もそうである。

 

「知る」ことが自分の未来を守る手段である現在、「大きなメディアが女性を使って無知を肯定すること」が許されて良いのだろうか。

今回の企画の舞台になった東京都現代美術館は、主に近現代美術を扱う。現代の諸問題を投影した作品もとても多い。

感動からもう一歩踏み込んで、それら諸問題を作品を通して知れるような体験を提案して欲しかった。

 

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記事に掲載されていた、草間彌生の作品《死の海を行く》を背景にした小栗さんの写真。

船のオブジェを形成する大量のソフトスカルプチュアは、男根を表象している。

男性への恐怖や性への嫌悪を持っていた草間は、恐怖の対象となるフォルムを作りつづけることによって、恐怖の感情を抑えていったという。

もし小栗さんがこの作品の経緯を知っていたら、笑顔で写真に応じることは出来ただろうか。

この作品の意味を知っている人が現場に1人でもいたら止めるべきだったであろうし、知らないのならば作品を軽く取り扱うべきではない。

アイドルという職業は、性的搾取の対象という側面も併せ持つ。アイドルにとって一部の男性ファンは、間違いなく恐怖の対象であろう。

男根の表象物を背景に笑顔を作る女性アイドルの写真からは、小栗さんを無知のままにさせ都合の良いように扱う企画者の姿が見える。

 

 

 

この企画が世間に出る前に、問題点を指摘し改善を試みようとする人はいなかったのだろうか。

読売新聞のような大きなメディアがどうしてこんなに考えの足りない行為をするのだろうか。

携わった人全員が製作段階で違和感を覚えなかったのだとしたら、感覚が麻痺し、アップデートすることを怠る堕落した人たちばかりだと思う。

 

読売新聞も美連協も現在、美術館が存続するために大切なプレイヤーであることは間違いない。(出資元的にも・運営的にも)

今回の批判に向き合うことで、組織が少しでもよくなるきっかけになることを願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドイグ・オラファー・古典現代

 

最近(主に6月~)行った美術館について簡単に(雑に)感想を残す。

 

 

・ピーター・ドイグ展@国立近代美術館

1959年スコットランド生まれ。現在最も重要な画家ドイグの日本初個展である。

ドイグの作品には、映画や写真など様々なイメージが引用されている。

これら複数のイメージをドイグは、非常に私的な視線でモンタージュしているようだ。

この「複数のイメージのモンタージュ」によって、私たち鑑賞者は不思議と夢想的な既視感を覚える。

過去に聴いた音楽や観た映画、そして自分自身の記憶が、ドイグの作品によって不思議と蘇った。

意外と、純粋な感性だけで絵画と自分が呼応する体験って少ない気がする。

f:id:wk_eng3:20200809020207j:image《ガストホーフ・ツァ・ムルデンタールシュペレ》2000-02年

ドイグ展の企画者・主任研究員は、大尊敬している早稲田の桝田倫広先生。

たくさんの人に観て欲しい…。心動かされる素敵な展覧会でした。

 

オラファー・エリアソン展 sometimes the river is the bridge@東京都現代美術館

1967年デンマークコペンハーゲン生まれのアイスランドの芸術家。

2003年にロンドンのテート・モダンの室内に巨大な人工太陽を設置した「Weather Project」が代表作であり、

自然現象の興味を投影した作品を多く制作している。

個人的な感想としては、オラファーが自然に寄せる関心については提示できているが、

ホワイトキューブに押し込まれた作品群はいささか本分を発揮できないように思えた。

自然現象を取り入れた作品で、何を語りたかったのだろうか。綺麗で楽しくはあったけどチームラボ的なあざとさも感じた。

 

2003年にテート・モダンで「Weather Project」を制作した際に、オラファーが作品に自然を引用する理由について述べた文章を引用したい。

「私にとっての動機は、制度的な施設と社会の関係なのだ。

作品は根本的に人々についての、彼ら彼女らが交換し、あらゆる段階において連鎖的に拡散して行く情報についてのものであり、

すなわち人間による核反応とでもいったものが行われているのである。」

f:id:wk_eng3:20200809022747j:image《Weather Project》

 

上記にあるような「鑑賞者が交換し、連鎖的に拡散していく」体験は、本展では十分に成し得ない。

もしかしたら新型コロナウイルスで展示を見送っている期間に、人が過度に集まることを避ける目的でこのようなキュレーションになったのかも。

オラファーが最近のインタビューで、パンデミックに対応した作品を作る必要性を述べていた。

そういう意味で今回の展示は、オラファーの作品が転換する狭間に位置付けされる可能性があり、重要な意味を持つかもしれない。

 

・古典×現代ー時代を超える日本のアート@国立新美術館

なんとなくオラファー展の不完全燃焼を抱えてこちらに…。

日本の芸術家を古典と現代からそれぞれ5人ずつ選出し、ペアごとに展示している。

各ペアによって、自然と共通項を見出せるものもあれば、こじつけを若干感じるものもあって、振り幅はある。

日本の土着的な自然信仰が、古典の芸術家からも現代の芸術家からも伺えた。

オラファーが自然に対して曖昧な形でしか回答できなかったのに対し(作品というよりキュレーションの問題な気もする)

こちらの作家の多くは、日本らしい自然信仰・賛美・畏怖を作品に落とし込んでいたのが印象的。

特に円空と棚田康司の、自然木の特性を活かした一本造の彫刻がよかったです。

夏目漱石の『夢十夜』の第六夜、運慶の話を思い出した。第六夜とても好き。

「運慶は木に埋まっている仁王像を取り出しているだけなのだ」

f:id:wk_eng3:20200809025935j:image円空の彫像

 

 

他に行った展覧会についてはまた後日書く予定です。

 

 

 

 

 

オンライン英会話を始めた

30分のオンライン英会話を毎日の習慣に取り入れてから早くも三ヶ月経った。

始めた動機は、今までの英語学習が読み書きに特化したものであり、自身の話す・聞く能力に不安を感じたためである。

三ヶ月で英語能力がどれほど上がったかは置いといて、今回は毎日の英会話を通して気付いたことを書く。

 

私の英語を話す能力は高くない。語彙も少ないし、使いこなせる言い回しも少ない。

しかし、画面を通して外国の先生と一対一で話さなければいけない以上、少ない引き出しでやりくりするしかない。

頭の中で考えたことを英語にしようと四苦八苦しているうちに、いつしか言葉にできることを考えるようになってしまった自分に気付いた。

これは日本語を話しているときには体感できない気づきであろう。

言葉が思考に限定をかけてしまうのである。

 

「言葉なしに思考はない」という現象は母国語においても共通であるだろう。

以下、修辞学者香西秀信の『教師のための読書の技術 思考量を増やす読み方』(2006)の一節を引用する。

 

   例えば、自分の不快な感情を表現するのに「むかつく」という言葉しか持っていない子供は、

   複雑な感情を単純な言葉でしか表現できないのではない。

「むかつく」という感情しか持てないのである。

  複雑で微妙な表現のできない人間に、複雑で微妙な思考も感情もありはしない。

 

最近の英会話での気づきが、この本の一節と重なり、私は自身を反省した。

今まで私は物事の言語化が嫌いであった。

なぜなら、言語化しがたい複雑な感情を、既存の「言葉」に押し込んでしまうことはつまらないと感じていたからである。

しかし、そういった理由で、言語化の難しい物事をそのままに放置していくことは逃げであるし、退化であるのだ。

言語なしに思考は存在しない。自分の貧相な引き出しを充実させながら、随時その引き出しで戦っていこうと思う。

 

ーーーーーー

 

オンライン英会話は主に、日々更新されるニュース記事についてディスカッションする形で行われる。

「この事件についてどう思う?」などといった会話は、意外と日常会話のなかで起こりえないものだから新鮮だ。

不慣れではあるが、これもまた一対一であるので何らかの自分の意見を頑張って発している。

 

思えば私はディスカッションも嫌いであった。

物事に対して思考したり、他人の話を聞くのは嫌いではないが、議論は嫌いであった。

他人の話を否定する気も起きないし、かといって共感する気も起きないのである。

高校では、二つの意見に分かれてグループで議論をするディスカッション合宿というものがあったが、全くやる気がなかった記憶がある。

知人と揉めても(上記の性格上、滅多にもめることはない)、対話の場を設けたいと思ったことは無い。

 

しかし、この性格が今の自分をつまらない人間にしているように思う。

自分は、なにかレポートや批評を書いても、議論が生まれそうな要素を排除する傾向がある。

理解を得ることが難しい要素を無意識的に避け、つっこみどころを作らないことを優先してしまう。

そのせいで、私が書く文章は、引っ掛かりもなく共感もなく、対話も生まれずただ平坦なものに留まっている。

情けなすぎる………。。。。とても落ち込んできた。

議論が苦手であるから、議論の機会をできるだけ避けようとしたゆえに、私はつまらない人間になっている。

 

私が現在勉強しているのは、近代/現代美術である。

取り扱う作品は、美術の歴史では未分化・未分類なものも多い。

これらの作品は、画家・批評家・キュレーター・その他多くの人の議論や批評により、

価値が検討され、美術史に組み込まれていく。

私がこの分野を研究する以上、他者と議論する能力は必須なのである。

 

私は未だ無知である。このような自己否定精神は気に入っており、直すつもりはない。

無知である自分を反省し、勉強を重ねていきたい。

しかし、私は無知だ・間違ってるかもしれない・他人に突っ込まれるかもしれない…といった恐怖を傍に置き、

勇気を出して批評していきたいし、議論の場にも参加していきたいと思う。

 

以上、オンライン英会話を通して得た気づきである。

 

 

 

 

 

 

 

エヴァンゲリオン観賞後記 と おまけ

 

GWの期間で『新世紀エヴァンゲリオン』のアニメシリーズ(1995年~1996年)と旧劇場版『Air/まごころを、君に』(1997年)を観賞した。

 

この作品は、2000年に起きた大災害セカンドインパクトから15年後の日本を舞台に、巨大な汎用人型決戦兵器「エヴァンゲリオン」のパイロットになった14歳の少年少女たちと、第3新東京市に襲来する謎の敵「使徒」との戦いが物語の大筋となっている。

 

放送時から近未来を描いたエヴァは、派手なロボットアクションやスーパーコンピューターの進化を描いているが、

作品の主軸に「進化する科学への期待」はない。

伊吹マヤのセリフに「まさに科学万能の時代ですね」とあるため、物語が進歩した科学の上に成り立ってることはわかるが、そこに焦点は当てられていない。

むしろ、エヴァに乗る14歳の青年の精神的葛藤であったり、神話への回帰による人間の起源への探求といったテーマの方が大きいだろう。

2000年という世界の新たな始まりを前に作られたロボットアニメが、なぜ明るい未来展望を語らないのか。

今作が放送された20世紀末という時代性に焦点を当てて考察する。

 

20世紀末の日本は1991年のバブル崩壊以後経済不況を迎えていた。その他にも袋小路に陥った環境問題、人口問題を抱えると同時に、

1997年の酒鬼薔薇事件のようなコミュニケーション不能を生む教育の問題など、当時を生きる人々が鬱屈とした閉塞感を感じるには十分だったと言えよう。

このような状況下で人々の関心を集めたのが、オカルトや神秘的、宗教的なものである。

1990年代前半に新興宗教団体オウム真理教が大きな団体になったことが端を発し、

1995年には、「ノストラダムスの大予言」が再び注目を浴びたことで第二次オカルトブームが起こったと一般的に言われている。

 

上述したような時代背景と共通点を見出せるのが、19世紀末のヨーロッパ社会である。

19世紀後半は科学万能主義が台頭したと同時に、フロイトユングが登場し人間の内面への探求が行われるようになった。

19世紀末にはカトリック復古運動が力を増し、宗教や神秘に対してより儀式性や象徴性を増した新興宗教も勃興した。

19世紀末ヨーロッパを呼称する「世紀末」に至るまでの流れは割愛するが、この時代を簡単に述べると

「人間と社会の進歩・発展を信じる楽天主義進歩主義も広く、そして根強く存在したが、その一方では、滅びの予感と人間文明に対するペシミスティックな懐疑、科学万能主義に対する反感、官能的陶酔への傾きなどの心性も現れていた時代」と言える。

 

前置きが長くなってしまったが、20世紀末の日本と19世紀末のヨーロッパの共通点をざっと洗ってみたところで、続いて、

新世紀エヴァンゲリオン」と「世紀末美術」を比較検討し、表象における相似点を見つけていきたい。

(ただしエヴァについて詳しくないのと、世紀末美術について専門的に勉強をしたことがないので、そんな発想もあるかもねくらいの気持ちで…)

 

f:id:wk_eng3:20200509020733j:imageGustav Klimt 《希望Ⅱ》1907年

世紀末美術を代表する画家の一人、グスタフ・クリムトの作品である。

「妊婦が子供の無事を願うかのように頭を垂れ目を閉じている。そんな彼女の腹部の背後から覗いているのは死神の頭部だ。

彼女が直面している危険の兆候である。足元には3人の女性が頭を垂れ両手を上げている。おそらく彼女たちも祈りを捧げている。

だがまるで子供の運命を予見しているかのように彼女たちの荘厳さは喪を意味しているようにも見える。」(MOMAハイライトより)

 

この作品の主題である「母と子」はエヴァにおける重要なテーマでもある。

エヴァンゲリオンパイロットの母親の魂が取り込まれていることから、パイロットの母親の化身とも取れるであろう。

パイロットが操縦するコックピットが液体に満たされているのは、母親の胎内、羊水のオマージュと考えられる。

クリムト絵画において死神から守り祈る母親像と、コックピットに子供を乗せ使徒から身を守るエヴァのイメージは重なるのだ。

パイロットであるシンジとアスカ(レイは出生が特殊なので除く)は共に、親とのコミュニケーション不全により自己肯定感が歪んだ子供として

描かれているが、どちらも物語終盤に、エヴァに乗ることで母親からの寵愛に初めて気づき、自己尊重に繋がった。

 

あくまで推察ではあるが、デカダンスが蔓延する世紀末社会において、自己認識を「母親と子」という最小単位の共同体から顧みることを喚起しているかもしれない。あるいは、人間存在の母親つまりは人間の起源(=神話)への回帰として捉えても、先に述べた世紀末性との類似点を指摘できるだろう。

 

 

f:id:wk_eng3:20200509035451j:imageGustave Moreau《オルフェイス》1865年

f:id:wk_eng3:20200509042535j:imageOdilon Redon《ヴィーナスの誕生》1912年

世紀末美術の一つの潮流に「象徴主義」がある。

象徴主義は従来のアカデミズムや印象派絵画に対する反発として、人間の内面や夢、精神性や神話性を象徴的に表現した芸術を指す。

この芸術において象徴として使われたのが「神話」「宗教」なのである。

かつてよりキリスト教は図像の中に特定の意味を想起するモチーフを入れることで、教義を表現し、それを伝播させてきた。

(百合の花→純潔 青いマント→聖母マリアなど。これらはアトリビュートと呼ばれる)

象徴主義は、観念(非物質)を表現するために旧来の象徴を引用することで、結果として宗教や神話の主題に立ち返ったのだ。

 

エヴァンゲリオンは、使徒をそれぞれ天使の名で名付けたり、物語の中で執拗に宗教用語を用いる。

(あと、「エヴァ 考察」で調べると聖書や宗教学を用いた考察がごろごろ出てくる。)

物語が中核に触れるにつれ、人間の起源的な部分・神的存在への言及がされてくる。

「神話・宗教へ立ち返った」カルチャーは、特に世紀末という時代性に生まれるもの、望まれるもののように思う。

 

少し文章を書くのに息切れ気味になってしまいました…。

あとは、象徴主義絵画を代表するオイディロン・ルドンが描いてきた多くの化け物のようなものは使徒のビジュアルに通じるものがある気がします。

ただこれらの作品にあまり詳しくないので、なんとも言えません。

f:id:wk_eng3:20200509042649j:imagef:id:wk_eng3:20200509042652j:imagef:id:wk_eng3:20200509042655j:imageすべてルドン。(最初のはサンダーキャットのDRUNKにジャケ写似ている)

 

あとはクリムトの《生命の樹》なんてもろエヴァじゃん…と思いました。これは見たことある方ならわかるはず。

f:id:wk_eng3:20200509172613j:imagef:id:wk_eng3:20200509172620j:image 

劇場版の終盤に、エヴァ初号機リリスが融合?し生命の樹に還元されるシーンは、クリムトの《生命の樹》と図像まで同じです。

 

精査も推敲もない思いつきのままの文章でしたがこんなところで。

 

 

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ところで話はそれますが、20世紀末に日本で生まれたカルチャーは、オカルトめいたものばかりではありません。

個人的な考えなのですが、1990年代の文化が今の日本でリバイバルの兆しにあると思っています。

 

・例えば、乃木坂の新譜『I  See』がSMAP感を想像させるとバズったこと。

この曲の特徴であるディスコ・ファンクは、1990年代のSMAPの曲に共通します。(SHAKEとか)

 

・メディアスターが一気に若返ったこと。

1998年は宇多田ヒカル浜崎あゆみ椎名林檎aikoモーニング娘。のデビュー年であり、若き才能が世にでたJPOP史に

おけるメモリアルな年でした。

こじつけ感は承知ですが、2018年から起こったお笑い第七世代のブームと重ねると、

メディアに若者の登場が望まれていることが共通点として挙げられるかもしれません。

 

・パルコ文化で生まれたポップでセンセーショナルな広告が、現在レトロポップとして再登場している(気がする)こと。

シノラーを文脈にもつフワちゃんのインスタとかYouTubeを見ればなんとなく思う。

あとテレビのタイトルデザインとか、デパートのポップデザインとか、1990年代の香りを感じる。

特徴としては、ポップで前衛的な色使いをしながら、アメリカ文化(80'~90'のファッションとか)を基礎としていないこと。

f:id:wk_eng3:20200509045245j:imageフワちゃん好きです。

 

なぜ現代と20世紀末日本の文化が少し似ているのか簡単に考えてみたが、

「新世紀」と「新元号」による時代のピリオド・新しい幕開けというシンボリックさや、

現代の長期化政権による閉塞感や終わりの見えない経済問題の直面化が、二つの時代の共通点として挙げられよう。

コロナ禍において更に長引きそうな鬱屈さが求める文化芸術は、しばらくは20世紀末日本のそれに似たものかもしれない。

 

文化人類学者のスヴェトラーナ・ボイムは、ノスタルジーを「復旧的ノスタルジー」と「反省的ノスタルジー」の二つに分けている。

「復旧的ノスタルジー」は単一の筋書き、特定の時代や国家や宗教への回帰を志向する。しかしこれは実現不可能な望みである。

時間は巻き戻せないし、理想郷を概念づけて立ち返る場所を決定するのは無理な話だ。

対して「反省的ノスタルジー」は理想に思う国家や神話を再建するのではなく、そこに宿る細部や断片(個人的な記憶や文化的な記憶)を愛する。

前者に対してこちらのノスタルジーは、作り手がいる限り実行可能だ。

 

時代の巻き戻しはできないが、ファッションが回るようにカルチャーも回っていくのである。